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2007.01.20 父の出征
長女の私が生まれたのは、日本が泥沼の道を歩み始める満州事変勃発の年、昭和6年2月。
昭和12年4月大坂尋常小学校に入学。その年の7月7日、日中両軍が北京郊外で衝突し、盧溝橋事件が起こる。両国は全面戦争に突入した。
7月20日、父に召集令状が来た。工兵として上海から南京まで道を作り、橋を架ける仕事だと聞かされた。お国のために名誉なことだと言われ、涙を流すことも許されなかった。
毎日の新聞には戦死者の名前が二面に渡りびっしりと載っていたので、まさかと思いながらも恐る恐る見たものだった。
母は気が小さい上に妊娠していたので、もしもの事があったら生活をどうしようと、ご飯も食べられない日が多く「何でご飯食べないの?」とYOSI(弟・長男)に言われていた。
13年1月2日に女の子が生まれた。村長さんが父の名前から一文字とり『初代』と命名してくれた。しかし、その妹はわずか十日で亡くなってしまった。
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2007.01.20 征く人
毎日毎日出征して行く兵士を 「勝って来るぞと勇ましく」と軍歌を歌いながら小旗を振って見送った。西の隊へ入る人は軽便の駅へ、東の隊へ入隊する人は役場の前でバスに乗るのを送るのだ。列車が、バスが見えなくなるまで一生懸命手を振った。見えなくなると「あの人二度と帰って来られるかなあ」と子供心に思った。
今でも一番思い出されるのは報地の溝口さんが 出征したときの事。奥さんを亡くしたばかりで、小学校入学前の二人の子どもの手を両手で握っていたけど、バスが来たのでその手を放してバスに乗って行った。その情景は今も鮮明に思い出す事ができ、親心はどんなであったろうと考えると切なくてたまらない。
2007.01.21 逝く人
村で最初に戦死した川口さんのお葬式の時は、先頭が学校に着いてもまだ家まで数百メートルも行列が続くほどで、大変名誉な事と崇められたものだ。
また、山崎さんが戦死した時は「天皇陛下万歳」とバット(煙草)の箱の裏側に書いてあったらしく、みんなに軍神だと誉め称えられた。

数え年20歳で徴兵検査を受け、21歳で出征していく。青春真っ只中のこれからという時に、お国のためという建前で戦争に駆り出され、最期の時には「天皇陛下万歳」と叫ぶのが美徳と教えられていても、実際には「お母さん」と言って死んでいく人が多かったと聞いた。

昭和15年から16年にかけて、だんだん国交状態が悪化して招集される人が多くなった。父も7月10日に2度目の召集を受け三島連隊へ入隊した。今度は輸送部隊で、船で荷物を運ぶ仕事をしていたそうだ。お店(自転車店)で働いていた若い人達も召集されて、お店で働く人がひとりもいなくなってしまった。
父はある日昼休みに休んでいる人達をわざわざ使っては気の毒と、一人で荷を積んでいた時にテコ棒が折れ、船底に落ちて大怪我を負った。戦地に立つ前にお別れに帰省した兵隊さんが、大阪の陸軍病院へ入院したと教えてくれたので、慌てて見舞いに行った。ところが病状が重くて面会謝絶だった。無理に頼み込んで、30分顔を見ることだけを許可してもらったが、見舞いの品は全部取り上げられてしまった。
父の入院中に部隊は外地へと送られ、多くの人達が戦死したと聞いた。父はお陰様で元気になり、11月10日帰宅することができた。
2007.01.25 昭和16年 17年
昭和16年12月8日未明 「米英と戦争状態に出でり」という突然の放送。
天皇陛下の語が下りて大東亜戦争となった。(語が下りれば戦争と呼ばれ、下りなければ事変と呼ばれる)
最初はシンガポール、ビルマ陥落とか南方の島々を占領したとか敵機を撃墜したとか いい放送ばかりで「我が方の損害は軽微なり」と言う大本営発表を真に受けて、みんな浮かれていた。

男の人は戦争に駆り出され、留守は女と子どもで守るんだと言われ、みんな必死に生きた。
お寺の僧侶も兵隊に行ってしまったので、小学生がお経を習ってお葬式にお経を上げに行ったり、月の1日と15日には朝6時からお寺の本堂で兵隊さんの武運長久の祈願で般若心経15回を上げたものだった。
2007.01.27 昭和18年
18年の4月。敵機が初めて東京を偵察に来たというので、警戒警報が出て学校から帰された。始めのうちは、飛行機を見ることも無かったので、学校から早く帰れるのがうれしかった。
軍需に関係の無いお店の人や、兵隊に行っていない人は、徴用といって軍需工場で働かされた。
売るものは統制され、お米は一人二合三匁。砂糖、醤油、マッチまで配給制度になり、衣類は切符制度で自由に物を買うことは出来なくなった。お菓子も時々コヌカ(粉糠)を焼いた様なのが配給されるだけだった。
女子生徒は髪の毛をとめるゴムも手に入りにくくなって困った。自宅が自転車店だった私は、口ゴム用の細いゴムが手に入ったので数センチに切って友人に分けたものだった。
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